ひざまし見え太郎

たちどころによくなる

はり

いつでも、今のことを、何かの終わった後だと思っていた。違わない、18歳は人生の墓場だ。高校を卒業して、他の人は水色や黄色をした薄明の向こうに分岐していったが、私はなんかじめっとした薄暗い、落ち窪んだところに分岐したんだと思っていた。

 

楽観もまた、それを共有し、慰め合う人間のたべものに過ぎないこと。他の若い人は未来の薄明に照らされていて、それは自分にだけない。若いとはいえる、よどみない皮膚や、回復の早い筋肉や、清潔でのびやかなはずの心とかが、無為に消費されるのを黙って耐えている。他人には好きなことや執着の対象があり、私にはない。公平さとはそうでないことへの恐れであって、自慢できるものでもないのに、そこから出ようと思えなかった。

 

公平さとはそうでないことへの恐れであって、無感情でありたいと願う気持ちはいつもある。何にもなりたくないと。何にも踏み荒らされたくないし、何に仕えたくもない。そうでなくては、あのように醜い姿を晒すことになるのに。恐れを植えつけられたわけじゃなくて、もともと自分の内側にあったのかもしれない。埋める中身のない枠とか全然かっこよくないじゃん。

 

生きてるだけなのに、恐れが澱のように心に薄皮を張り、心は狭められて、媚びと逃避と梯子外しばかり上手くなってしまう。不器用なままでいたかったが、今でも随分不器用で、そしてやっぱり今が晩年であるような気がする。

 

 

 

 

 

【2019年8月1日】