ひざまし見え太郎

たちどころによくなる

不信感

文章上手い人の文章って上手くてムカつくよね、シンプルに。この歯とこの歯が噛み合ってじつに効果的な匂いを発する現場に出くわすと蹴り倒してやりたくなる。文章は文字なので、文字が映るのはたいてい光る画面か白い紙。まあ、蹴り倒すには至らない。

ずっとそうだった。

児童向けの読み物を少なくない量読んできたと思う。この年齢の人たちが、こんなに整った動機によって行動するわけないよ。ページをめくるたびに、不自然に物分かりのいい、そうだ、いやに分別のつく、そのわりに素直な子供たちが、子供らしく跋扈しているのを見る。私はちょっとずつスッと冷めていく。そういうのを何度も繰り返して、中学校に上がる頃には星新一ばかり読むようになった。星新一は、はなから人間を機構扱いするのでかえって安心感があった。

機構と人間の境目。それは、それぞれがそれぞれに主張すればいいんじゃないですか。機構厨、被造物厨のオタクは絡んでこないでね。

……ええと、言説や物語、言い換えれば方向性を抱いた文章、をたくさん読んでやっとわかってきたけど、多分文章をちゃんと書ける人間は、(書かれたその文章だけでなく)実際に自分より整った世界に生きているのだ。自分の欲のありようとか、行動したら起こる可能性のあることの予期とか、その他いろいろ、私には具体的に言い表せないようなことを、私よりクリアに理解・把握してるんだろう。そうでなければきっと人間をそのようなものとして書かない。……最近こんな考えに至ったので、くさくさしている。

 

文章上手いねって褒められることがよくある。よく、ではないにせよ少なくとも、書いたものをツイッターに上げると必ず他人がなんかしら好意的な評価を述べてくれる。嬉しいんだけど、率直に言って僕を、僕の一生届かない憧れるべきものと同一にされたようで不愉快だ。みんなは僕のことを勘違いしている。多分僕は文章の上手さを評価されてるんじゃない。僕の正直さを評価されてるだけだ。なのに他の人はそのことをわかってない。わからないまま褒めてくれるから、その羽みたいなズルに応じて、正直さなんていくらでも出せる。出せない。いくらでも出せるほど、破綻したくない。形式の伴った破綻者になれない。

 

これを書いていて息が荒い。薬を増やしてもこんな思いをすることができるのはよかった。そして空転する。書き上げられないまま公開するんだろう。適切になれない。構造への言葉巧みな愚痴を、数多く吐ける人になりたかったのに。文章が上手い人はこんなにダサくない。国語が得意な人はこんなにバカじゃない。いったいみんな私の何を見て優しくしてくれるんだろう。不器用だから無害なだけだ。いやきっと全員私と大差なくダサくて不器用で無害なんだろうな。あっちいけよ

 

 

 

 

 

2019年9月23日

改稿 2019年10月9日